[素晴らしい教材から] 古事記のトリックの解明
- オリジナル・シー・ヴイ代表の末次です。
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<目次>
1.[素晴らしい教材から] 古事記のトリックの解明
2.先月のイチオシ!! ビデオ作品 「クライミングと歴史探訪の旅 ~フィナーレ・リグレ、ラベンナ~」(後編)
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1.[素晴らしい教材から] 古事記のトリックの解明
さて、いよいよ古事記のトリックの解明に入ります。
以前、『上つ巻は日本を作った神の話、下つ巻は実在する天皇の話なので、天皇が朝鮮半島から渡って来た氏族ではなく、日本の神から正統に継承されて実在する天皇に引き継がれていると主張するのならば、中つ巻こそは古事記の核心部ということになります。古事記の編纂者の腕の見せ所というわけです。』と書きました。
この中つ巻にメスを入れていきますが、私の考え方のベースは古事記といえども同じ人間が作りあげたもの。考え方のベースは変わらないだろうというところから入ります。
まず、骨子を作り、そして、肉付けに入るということです。
古事記の中での骨子とは、『天皇が何をしたか』ということだけ。それ以外は後から肉付けしたものだと考えます。そして、骨子を作る場合でも、まるまる空想から作り上げるということは不可能なので、実際に起こった事柄にトリックを入れて書き換えたと考えます。そのトリックの条件はシンプル、かつ、大胆であるということ。複雑なトリックを入れると前後の辻褄合わせの書き換えが大変な作業になるので行わないと考えます。
そして、私がたどり着いた結論は次の3つのシンプル、かつ、大胆なトリックが行われたということ。
(1)第一のトリック 主人公の入れ替え
実在の天皇が行ったことを、架空の天皇を作り上げて、その架空の天皇が行ったように見せかけること。
(2)第二のトリック 時系列の入れ替え
架空の天皇が行ったことを、実際に起こった事柄よりも時系列で古く見せかけること。
(3)第3のトリック 『From』と『To』の入れ替え
どこから来て、どこへ行こうとしているのかの地理的な場所を入れ替えてしまうこと。
そのトリック解明の突破口はやはり宇佐です。宇佐神宮のホームページには次のように紹介されています。
『八幡さまは古くより多くの人々に親しまれ、お祀りされてきました。全国約11万の神社のうち、八幡さまが最も多く、4万600社あまりのお社(やしろ)があります。宇佐神宮は4万社あまりある八幡さまの総本宮です。』
この文章をご覧になって、「へぇー、すごいね。」だけで終わっていませんか。約4割の神社を支配しているのです。古くから長きにわたって、八幡大神こそがこの日本を支配して来たと言えるのではないでしょうか。この単純な事実を見逃してはなりません。
そして、725年、八幡大神とは応神天皇だとして、現在の地に創建されたのです。710年に古事記が、そして、720年に日本書紀が編纂されていますので、その直後ということになります。
ところがこれらの記紀の『応神天皇』の記述の中に『宇佐』の一言の文字も入っていませんし、応神天皇が英雄視されるようなことは一切書かれていません。これはまことにおかしい。
第一の宗廟である伊勢神宮が高天原のヒロインである天照大御神を祀っているのならば、第二の宗廟である宇佐神宮には葦原中国のヒーローを祀っているのが筋。当時の政府はそこに応神天皇が相応しいと言っているのです。ところが記紀の中にはそこのところの何の記述もない。
これは当時の政府がこの矛盾を知っていながら、放置している感があります。
では、記紀の中で葦原中国のヒーローと言えば、大和東征を行った神武天皇に違いありません。
ここで応神天皇と神武天皇は同一人物ではないかと思えてくるのです。言い方を換えれば、神武天皇とは架空の天皇で、応神天皇が行ったことを神武天皇が行ったように見せかけているということです。
これを断定するには清水の舞台から飛び降りるようなものですが、一度、飛び降りてしまえば後はとんとん拍子で進みます。
古事記の中で『崇神天皇』は『初国知らしし天皇』とありますので、これも応神天皇のことではないかと考えられます。よって、中つ巻の神武天皇から崇神天皇までは応神天皇と同一人物。つまり、応神天皇が行ったことを架空の天皇である神武天皇から崇神天皇に置き換えたと考えられます。
そして、次の垂仁天皇から成務天皇も架空の天皇で、仁徳天皇が行ったことを置き換えていると思われます。そうすれば倭建命の全国統一は仁徳天皇のときに行われたことになり、「世界三大墳墓」と言われる大山古墳が仁徳天皇陵と伝えられる通説にも合致することになります。
前述した第一のトリックと第二のトリックは神武天皇から成務天皇までを対象としたということ。そして、実際は応神天皇と仁徳天皇が行ったことだと考えたわけです。
このように考えると、私には嬉しいことがあります。私たちの古事記の中つ巻のトップバッターとして登場するのは仲哀天皇になります。以前、不可解な古事記と称して書いた仲哀天皇の出だし部分が不可解でなくなってくるのです。
「帯中日子天皇(仲哀天皇)、穴門の豊浦宮、また筑紫の香椎宮に坐しまして、天の下治らしめしき。・・・」
大和東征を行ったのは応神天皇なので、仲哀天皇が豊浦宮や香椎宮に坐してもまったくおかしくないのです。そして、さらに言えることはこの仲哀記こそは大和東征前の九州の情勢を知る貴重な題材になるということ。ここでも最大のトリックを解かなければなりませんが、古代史の謎の核心部に触れていくことになります。
そして、ここで事件が起こるのです。
次回は「仲哀記の真相!?」について語ります。
2.先月のイチオシ!! ビデオ作品
作品名 「クライミングと歴史探訪の旅 ~フィナーレ・リグレ、ラベンナ~」(後編)
制作 Original CV
作品時間 52分
リグリア海沿岸のフィナーレ・リグレから山を越えて、ポー川沿いのロンバルディア平原に入ってくると気温が10度ぐらい下がったように感じました。
今回の旅の最終目的地ラベンナはイタリア半島の長い靴の東の付け根にあり、西ローマ帝国滅亡時の首都でした。ここでも様々な歴史が展開されますが、そのひとつを紹介しましょう。
時代の中で人生が大きく翻弄される女性たちがいます。
織田信長の妹であるお市の方や、その子であるお茶々の運命は日本人でなくても悲哀を感じるでしょう。そして、ヨーロッパでは5世紀という時代を生きたガッラ・プラチディアもその一人でしょう。
ガッラ・プラチディアはテオドシウス帝の子として生まれましたが、二人の兄がいました。
アルカディウスとホノリウスです。テオドシウス帝は亡くなる前に、軍総司令官のスティリコにこの二人の兄弟を託しました。18歳のアルカディウスはローマ帝国の東側を、10歳のホノリウスはローマ帝国の西側を治めることになりました。
しかし、23歳になったホノリウスは嫌気が差して軍総司令官のスティリコを処刑してしまいます。無防備となった西ローマ帝国を西ゴート族のアラリックが攻めます。そして、ローマ劫掠が行われました。つまり、ローマは徹底的に略奪されたのです。そのときに、ガッラ・プラチディアは捕囚されました。
そして、アラリックの後継であるアタウルフと結婚することになりました。得意満面であったアタウルフですが、イベリア半島に移ってから他の諸部族と対立し窮してしまいました。
これを打開しようと次の族長となるヴァリアはローマと関係改善を謀りました。その条件とはアタウルフの殺害、ガッラ・プラチディアの返還、そして、食糧援助です。こうやって、北アフリカから送られた大量の小麦と引き換えに、ガッラ・プラチディアは5年ぶりにイタリアへ戻って来たのでした。
間も無く、ガッラ・プラチディアはホノリウス帝の承認の下に、貧農の生まれの将軍コンスタンティウスと結婚させられました。この二人の間にヴァレンティニアヌスという男子が生まれます。
2年後、子のいないホノリウス帝が亡くなると、ヴァレンティニアヌスが西ローマ帝国の後継となりました。まだ6歳のヴァレンティニアヌス帝は母であるガッラ・プラチディアの後見を必要としました。ここに来て、ガッラ・プラチディアは西ローマ帝国を統治することになったのです。このとき彼女は30歳代の半ばであったといいます。
何という波乱の人生!!
現在、ラベンナの『ガッラ・プラチディアの廟』に彼女の亡骸はなく、他に埋葬されていると聞きました。貧農の出であるコンスタンティウスと一緒に埋葬されることは、彼女の中にあるテオドシウス帝の娘としてのプライドが許さなかったのでしょう。