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2011年11月07日

イタリア旅行記 ~フィナーレ・リグレ、ラベンナ~

 10月3日から10月19日まで、イタリアのフィナーレ・リグレ、ラベンナに行って来ました。これはそれをまとめた旅行記です。旅行中、ご一緒させていただいた皆様には大変お世話になりました。この場を借りて御礼申し上げます。

10月3日 ジェノバ

 アリタリア航空で、ローマ経由ジェノバに向かった。

 ローマ行きで同乗していた日本人とはローマで別れ、ジェノバ行きに乗っている日本人は私たち以外にいなかった。ま、いつものように、あまり日本人に馴染みがあるところに行かないのが、私たちの特徴ではあるが…。

 ところで、アリタリア航空のアリタリアとは、複合冠詞ALとITALIAで構成されていて、イタリアへという意味である。英語で言うと、TO THE ITALY。複合冠詞のなせる技だと妙に感心してしまった。

 ジェノバ空港の到着出口から外に出ると、すでに陽が落ちており、辺りは暗い。タクシー乗り場へ行くと、タクシーは一台もおらず、タクシー待ちの乗客でいっぱいだ。簡単にタクシーに乗れるだろうと思っていた当てが外れて困った。ホテルの近くにあるバス停までバスで行こうかとも考えたが、バスもいつ来るかはわからない。
 そうこうしているうちに、たまに来るタクシーで徐々に待っていた乗客が減っていった。気を取り戻して再びタクシー乗り場で待っていると、漸くタクシーがやって来た。

 待てば海路の日和ありと言うわけである。

 タクシーの運転手に聞くと、今日はボートショーがあり、交通渋滞しているとのことだ。タクシーも来ないわけである。


10月4日 フィナーレリグレ

 ジェノバの朝は澄み渡った空で明るく、リグリア海の港街にふさわしい陽光だ。

 さて、今日はまずレンタカーを借りに行かねばならない。日本で得た情報ではレンタカーは街中にあるということだ。ホテルのカウンターのお兄ちゃんに聞くと、地図を差し示して、「このホテルから歩いて15分のところにあるよ」とアドバイスしてくれた。重い荷物を抱えて15分も歩くわけには行かないので、タクシーを呼んだ。

 タクシーに荷物を積み込み、いざ出発せんと、レンタカーのアドレスをタクシーの運転手に見せると、タクシーの運転手は「これはジェノバ空港内のアドレスだよ、街中じゃないよ」という。こちらは、「空港ではなくて街中だと日本で聞いた」という。タクシーに乗ったというのに目的地を定めることが出来ないわけだ。

 タクシーの運転手は携帯でレンタカーの電話番号に電話をかけた。
 「アドレスを見ると、空港内になっているのに、客は街中にあると言って、空港内じゃないと言い張る。どうなってるんだ?」
 結局、タクシーの運転手が正しく、このレンタカーはジェノバに一ヶ所しかない。そして、それは空港内だということで一件落着となった。

ということは、あのホテルのお兄ちゃんのアドバイスは一体何だったんだ?

 さて、無事にレンタカーを借りて、フィナーレリグレに向かった。高速に乗るとジェノバから小一時間でフィナーレリグレに着いた。しかし、目的地の本日のお宿Residence Gliciniがどこにあるのかがわからない。こちらもすぐに見つかると思っていた当てが外れた。
 
 ある人に聞くと、「海岸線に出てSavonaの方に戻り、ひとつ目のトンネルの前を左に上る。」という。
 行ってみると、トンネルの前を左に上がる道はない。

 そこでまた、ある人に聞くと、「フィナーレリグレは3キロメートル向こうだよ。」という。
 そりゃそうでしょ。そちらから来たんだから。確実に分かるひとつのことはSavona方向へ行き過ぎたということだ。また戻り、それらしい雰囲気の小道を右に入っていった。

 車を停めて、バーに入り聞いてみると、「来た道を200メートル戻り左に曲がれ」という。
 それらしいところを探しながら、左に上って行っても見当たらない。

 小さなホテルに入り、聞いてみると、「来た道を戻り右に曲がって、再び右にまがれ」という。
 それらしいところを注意深く探してみたが、やはりわからない。

 お手上げだ。小さなホテルの前に車を停めて、目的地の宿に電話をした。そうすると、「もう近くまで来ているよ、チャリンコで迎えに行くから待ってて。」という。
 そして待っていると、顔立ちの優しいお兄ちゃんがチャリンコで迎えに来た。チャリンコに誘導されながら、5人が乗った車はとうとう目的地へ着いた。ホッとしたと同時に、こりゃわからないわけだと納得した。

 この宿の表札はA5ほどの大きさでしかない。大きな看板はないのも道理だ。この宿は普通のアパートを改築した程度のものだから。
 つまり、これを日本風に言うと、上大岡駅で降りて、南区大岡にある末次さんの家はどこですかと聞いて、末次さん宅を訪ねることと大差ない。

 だからといって、この宿が悪いというわけでは決してない。満面に笑みをたたえる宿のご主人とそのお父さん。お世話になる部屋のドアには「ようこそ」と日本語で書かれた紙が貼られていた。おまけにお父さんからは「ようこそ」の文字を指差して、「これはなんと呼んだらいいんだ」と言われる始末。
 「ようこそ」という呼び方もわからないまま、お気持ちで私たちを歓待してくれたのだ。そのお気持ちを大切にしたいと思う。この宿に日本人が泊まるのは初めてとのことだ。

ジェノバの街ジェノバ・プリンチペ駅にある
コロンブスの像
借りたレンタカー


10月5日 Il Cimitero, Caprazoppa

 遅くに、朝日が上がる。7時になって、漸く白み始める感じだ。

 さて、今日はクライミングの初日。海岸線に一番近いCaprazoppaの岩場へ行ってみることにした。
 Borgio Verezziでアウレリア街道からはずれて、右に入る。そして、海岸線を右手に見ながら斜面を上がっていくのだが、イタリアの道は狭い。小型車が一台通れるのが、やっとのところを登って行く。そして、いつものことだが、クライミングのガイドブックにPマークのあるところは、道路の膨らみがあり駐車出来るという意味であって、立派な駐車場があるわけではない。縦列駐車をぴったりと出来るドライビング・テクニックが必要だ。

 今日向かったエリアはIl Cimitero。Senza Nome 10m 5b、Seppia Grassa 15m 6a+でアップした後、Another Day In Paradise 15m 6c+をトライ。
 下から見た目以上にかぶっており、核心部はルーフを越えていく感じだった。

 このエリアは南に向いているので、陽が差して暑い。明日からは日陰のクライミング・エリアを選ぼう。

これが駐車スペースSenza Nome 10m 5bを
登るtaさん
Another Day In Paradise
15m 6c+を登るmさん


10月6日 Rocca di Perti

 朝方から雲が出ていた。天気は下り坂である。

 今日はRocca di Pertiの岩場へ行くことにした。Finaleborgoを過ぎると、下から岩場の全容が見えて来た。かなり大きい。
 右に曲がって、細い急坂を登り始めると、道はダートに変わり、大きく右に曲がるところに車が2台停まっていた。ここから先は道が深く掘れていて、車で進むことが出来ない。ここが車で上がれる実質的な終点である。

 まず、一番近いParete delle Gemmeのエリアに取り付いた。石灰岩で壁の中ほどに秋芳洞にあるような小さな石筍がたくさん見られた。珍しい壁である。
 Flebo 30m 6a、O Palliano 15m 6bを登ったところでパラパラと雨が降って来た。

 少し天気の様子を見て、次のエリアに向かった。
 Ombre Bluにはフランスから来た二人のカップルがしきりとトポを見ていた。確かにわかりづらいのだ。彼女曰く、「一部が崩壊してトポの様相と違って来ているのかも…。」 さもありなん。
 Resolriama 50m 6bと思われる1ピッチ目をトライして、このエリアは終了。そして、Settore Placca PiottiエリアとPancia dell'Elefanteエリアに足を伸ばして岩場全体の概観を掴んだ。石灰岩ではあるが、大きなコルネが発達したり、長い前傾壁が続いていると言うわけではなく、基本的にフェースである。本日のクライミングは終了。

 一旦部屋に戻り、買い出しへ出かけた。水を買って来たのだが、なんと炭酸ガスが入っていた。確かに表示はAcqua Minerale Naturaleと書かれている。宿のご主人に聞くと、
 「通常Naturaleでノン・ガスを意味するのだが、このボトルに関してはFrizzanteと表示があり、これは炭酸ガス入りを示すのです。紛らわしいですね。」
 ウーン、ひとつ知識が増えたけれど、なんとも釈然としなかった。

小さな石筍がたくさん見られる
珍しい壁
Settore Placca Piotti
エリア
Naturale o Frizzante?


10月7日 料理は当番制

 本日はレスト日。近くを散歩したりして、のんびりと過ごした。

 さて、今回の参加メンバーは5人。部屋にキッチンが付いているので、食事は自炊しているのである。この場合、どうしても料理の上手な方に負担がかかってしまう。そこで、「当番制にしよう」という提案があって、それを行うことになった。

 ということで、今日は私の番なのである。限られた調味料で作ることはかなりのプレッシャーなのであるが、そこはあれこれとアドバイスをいただけるので、その通りにやれば自ずと料理が出来てしまう。終わってみれば、自分に役立つ料理教室のような感じだ。作って、食べて、喜んでもらって、皆ハッピー。

 さて、食材を買い出しに近くを歩いてみるといろいろなものがある。まず、驚いたのは野菜。ほうれん草にしろ、ブロッコリーにしろ、しっかりと味がある。味が濃いというべきか、水っぽくないというべきか…。そして、円高ということもあるが、総じて驚く安さだ。肉屋さんに入って、大きなハムの固まりから五枚切り出してもらい、次いでに、大きな生ハムも十枚切り出してもらった。これで8ユーロ。生ハムが高い日本だと軽く2千円は越えてしまうだろう。また、今日の夕食用にムール貝を買った。1キログラムで4ユーロである。新鮮で、美味しくて、安い。過去、ローマやフィレンツェやパレルモに行ったけれども、こんなに安いところはなかった。ここは食材の天国だ。

 そしてもうひとつ大切なことに気付いた。このフィナーレリグレの街にゴミが落ちていない。イタリア中どこに行ってもゴミや犬の糞だらけだと思っていたが、間違いだった。さすがにリゾート地である。
 街並みは美しく、白く長い砂浜にパラソルが続く。宿泊客は時間に追われることなく、ゆったりとくつろぐ。それがまさにリビエラなのだろう。

Finale Ligureの街Finale Ligureの坂Finale Ligureの門
Finale LigureのビーチFinale Ligureのビーチこれにムール貝の
山盛りもあったのだ!


10月8日 Monte Sordo

 風が少し涼しくなったように感じる。
 今日はMonte Sordoに行ってみることにした。S.Bemardoの教会から先の道は車1台がやっと通れるような道で細い。そこに対向車が来るのだから大変だ。

 まず、Alveare e Placca di Muエリアへ行ってみた。小さな洞窟を登るルートだが、明らかに難しい。この中で、Apissima 10m 6bに取り付いたが、クライミングにならずに敗退。しかし、この洞窟から見る景色は開けていて気持ちがよい。昼食後、少し簡単なところに行こうと隣のFalesia Delle Tecchieエリアに行った。短いBlindosbarra 15m 6aに取り付いたが、ホールドのエッジが立っており、指の負担が大きいので、気力喪失。

 ま、秋晴れの清々しい1日を岩場で過ごしたということで、良しということにしよう。

石積みの門の中の洞窟開けた外を見ながらランチ7bをトライするmさん


10月9日 レストランテで食事

 日曜日は岩場も混むということで、レスト日にした。というのも、週末は狭い道、狭い駐車場にクライマーやハイカーがどっと押し寄せるわけで、ドライバーはクライミング以前に神経を磨り減らしてしまう。

 さて、ブラブラとフィナーレリグレの中心部を散歩した。日曜日ということもあって、人通りは多い。
 広場の門のすぐ側にあるレストランテに入った。ここの店だけが混んでいる。いくつかのスパゲッティを注文したが、さすがに美味しい。カップの色もそれぞれが違いカラフルだ。ウェイターの態度が生意気なところを除けば、良いレストランテだろう。

カップの色がカラフルお洒落なイタリアの靴中心部から少し離れた
静かなビーチ


10月10日 Lacrema

 晴れ。朝方の冷え込みが強くなった。

 浜辺で日の出を撮影していると、地元のおじさんが語りかけて来た。
 「ここから見る日の出は、太陽が二つになるときもあるんだ。すごいよ。」
でも、今日は水平線上に出た太陽と海面に映る太陽の二つを撮ることはできなかった。

 さて、今日は宿泊しているところから近い、Lacremaに行くことにした。
 谷筋を上流に上り、細い道を左手に曲がり、急坂を上って行くと、現在は使われていない教会に着く。ここから気持ちの良い小道を通って岩場に向かう。

 まず、取り付いたIl Topo E L'elefante 20m 6a+の出だしはやたらと難しい。後から来たスイス人たちもテンションが入っていた。
 隣のPathos 20m 7aはもっとホールドが遠くて難しい。自分のクライミングの拙さを痛感する。ここの岩場に来るには10年早いと言われているようだ。

Finale Ligureの日の出教会の上の空に
描かれる飛行機雲
Il Topo E L'elefante 20m
6a+を登るtaさん


10月11日 Bric Grigio

 朝、二つの太陽を撮影しようと浜辺に出かけたが、そう簡単に撮れるものではない。

 さて、今日はまだ行ったことのない渓谷に車を走らせた。4-5台停めることのできる駐車スペースに車を置き、道路の反対側の川を渡って、急坂を上った。

 当初、Kattedraleの岩場へ行こうと考えていたが、そこへ行く分岐点が分からずに、結局、山頂付近まで登ってしまった。皆さん、相当にバテている。ガイドブックを取り出して、ここは何処だろうと探していると、そこはBric GrigioのSettore Destroエリアだと分かった。

 小さな洞窟の左側にあるBulla 25m 6bとBella 25m 6b+に取り付いたが、どちらも中間部の乗り越しが難しく、また、ランナウトしているので、クリア出来なかった。連日、6bにはやられっ放しである。これが自分の実力だとうなだれるしかない。トホホ。

船の上に昇る太陽急坂を上るBulla 25m 6bを登るtoさん


10月12日 Kattedrale

 朝、起きると曇り。いつ雨が降っても対応できるように、車から降りて一番近いKattedraleの岩場へ行くことにした。
 昨日の二の舞にならないように、慎重に分岐点を探すと、ケルンらしきものを発見。ここから入って行くと、有りました、有りました。プラナンのようなどっかぶりの壁。

 まず、隣のGrazia 15m 6bとBlack Love 20m 6b+に取り付くが、例によって、6bの壁で登れなかった。
 気を取り戻して、どっかぶりのFragile 25m 6cに取り付くと、これは楽しい。まさにプラナンの岩場を登っているようだ。久しぶりにクライミングを楽しんだという満足感を覚えた。

 結果的に、今回のフィナーレ・リグレのクライミングは本日をもっておしまいとなった。完敗である。ここで上手に登れるようになるためには10年かかるということだろう。ま、出直すしかないですね。

 完敗に乾杯!!


10月13日 蚤の市

 フィナーレ・リグレで最後の一日である。

 朝、蚤の市が開かれているということを知り、当初予定していたクライミングを中止して、そちらへ行ってみることにした。

 フィナーレ・リグレの海岸沿いの道に端から端まで屋台が出ていた。衣服がメインであるが、隅に食料品の屋台も出ていた。Tさんは3ユーロの腕時計を買ったが、私は迷わずに、キログラム当たり18.9ユーロのチーズを一塊ほど買った。これでお土産は完了である。

 フィナーレ・リグレでの生活を振り返ってみると、あっという間だった。光陰矢のごとしとも、百台の過客とも言われるわけである。ここの食材の新鮮さ、美味しさ、安さは群を抜いており、生活するには最適の場所である。また再びここへ戻って来ることがあるかどうかはわからないが、想い出に残る素敵な街であることには代わりがない。

蚤の市3ユーロの腕時計食料品の屋台
新鮮な野菜チーズソーセージ


10月14日 Genova

 天気は下り坂に向かっていた。雲が湧き、風が強く吹いた。

 さて、とうとうFinale Ligureともお別れだ。乗り慣れた車に全ての荷物を積んでGenovaへ向かう。Genova空港でレンタカーを返却した後、タクシーに乗り換えてホテルに着いた。

 まだチェックインするには時刻も早いので、街をぶらりと散歩することにした。Palazzo Rosso(赤の宮殿)とPalazzo Bianco(白の宮殿)はGenovaの中心部にある。フィレンツェを思わせる石畳を歩いて行くと右に赤、左に白の宮殿がある。わかり易く、赤の宮殿は赤色を基調とした造りになっており、建物の外壁や階段に敷くカーペットは赤色である。白の宮殿はそれらが白色になっているということだ。

 赤の宮殿の特長は立体的に作られた天井壁にフレスコ画が描かれており、少しボルゲーゼ美術館を思い起こさせる。そして、最後に赤の宮殿の屋上に出て、Genovaの街を一望にする。海運都市として栄えた過去の栄光を垣間見る思いだ。

赤の宮殿
(Palazzo Rosso)
白の宮殿
(Palazzo Bianco)
アンヌンツイアータ教会
(SS. Annunziata)


10月15日 Modena

 GenovaからVoghera、Piacenzaと乗り継いで、Modenaの街に到着。

 ポー川沿いのロンバルディア平野は山の端が見えないほどに広い。そして、リグリア海沿岸のFinale Ligureと違い、空気が相当に冷たい。平均気温が10℃ほど下がった感じだ。早速、羽毛服を取り出した。

 明日、最終目的地のRavennaへ行き、そして、明後日、再びこのModenaに戻って来る。つまり、ModenaはRavennaへ行くための中継地なのである。それもそうでしょう。ロンバルディア平原に岩場なんてないのに、70mロープとクライミング・ギアをかついでいるのだ。これらをここのホテルにデポしなければ、動き回れない。

 なぜ、Ravennaへ行くのか。

 私たちは「クライミングと歴史探訪の旅」を続けていて、それには毎回テーマがある。

       クライミング・エリア    歴史探訪
2006年 ギリシャ・カリムノス島  古代ギリシャ(アテネ、コリントス他)
2008年 イタリア・スペルロンガ  古代ローマ(ローマ、フィレンツエ)
2009年 イタリア・シチリア     共和制ローマ、ポエニ戦争(シチリア島)
2011年 イタリア・フィナーレリグレ 帝政ローマ、西ローマ帝国の滅亡(ラベンナ)

 だから、明日行くRavennaにはそれだけの熱い想いがあるのだ。

目的地にコンパスを設定
街歩きにコンパスは必需品
モデナのドゥオーモグランデ広場に上がる熱気球


10月16日 Ravenna

 朝、Modenaを出発し、Bolognaで乗り換えて、Ravennaに到着した。

 まず、街の北東にある東ゴート族テオドリック王の廟へ向かった。520年頃に建造されたというから保存状態はかなり良い。
 なぜ、ゲルマン民族の王の廟が破壊されずに、現在まで残っているのかと不思議がる方がいるかもしれない。水戸黄門のように分かりやすく、ローマ人が善で、ゲルマン民族が悪という勧善懲悪のようにはならないのである。

 Ravennaに都を遷したホノリウス帝が自ら唯一行ったことは、ヴァンダル族の血をもちながら、最後のローマ人と言われた軍総司令官のスティリコを処刑したことである。これによって、西ローマ帝国を守る人はいなくなった。スティリコの下で戦っていた傭兵も西ローマ帝国を見放し、西ゴート族アラリック王の下に鞍替えしてしまった。ローマはアラリック王の前に無防備となり、徹底的に略奪された。
 その後、西ゴート族はイベリア半島に移り、代わって台頭したオドアケルによって西ローマ帝国は滅ばされた。そのオドアケルを倒して移って来たのが、東ゴート族のテオドリック王であった。

 テオドリック王は善政を行ったのである。イタリア全土の民衆が願っていたことはひとつ。略奪されないような平和な世の中。東ゴート族が防衛軍となり、他のゲルマン民族からイタリア全土を守る。そして、行政全般はこれまで通りローマ人たちが行うようにしたのだ。統治するのは東ゴート族だが、その他一切はローマ人にやらせたのである。一時的にもイタリア全土に平和が戻ったのだ。
 テオドリック王が死を迎えたとき、東ゴート族もローマ人もすべてが涙したという。だからこそ、テオドリック王の廟は現在までも残っているのだ。

 次に、サン・ヴィターレ教会へ向かった。見事なモザイク装飾だ。主祭壇左側の壁面上部に「ユスティニアヌス帝が宮廷人を従えた図」がある。もちろん、中央はユスティニアヌス帝だが、その右側にいるのがベリサリウスである(右から4番目)。
 ユスティニアヌス帝が行った偉業は3つある。1.ハギア・ソフィアの建立 2.「ローマ法大全」の編纂 3.旧西ローマ帝国の再復
 この旧西ローマ帝国の再復をなしとげたのが、ベリサリウスである。限られた兵士を率いて、北アフリカのヴァンダル王国を壊滅させ、東ゴート族をイタリアから追い出した。しかし、晩年、彼は皇帝暗殺の陰謀をめぐらせたという罪で、全資産の没収と自宅軟禁に処せられた。 
 565年、ベリサリウスは死を迎え、そして、その8ヵ月後にユスティニアヌス帝も後を追った。

 そして、今残っているのは、サン・ヴィターレ教会の美しいモザイク壁画だけなのだ。

東ゴート族
テオドリック王の廟
サン・ヴィターレ教会ユスティニアヌス帝が
宮廷人を従えた図


10月17日 Ravenna

 時代の中で人生が大きく翻弄される女性たちがいる。

 織田信長の妹であるお市の方や、その子であるお茶々の運命は、日本人でなくても悲哀を感じるだろう。

 そして、ヨーロッパでは5世紀という時代を生きたガッラ・プラチディアもその一人であろう。

 ガッラ・プラチディアはテオドシウス帝の子として生まれた。兄はアルカディウスとホノリウスである。テオドシウス帝は亡くなる前に、軍総司令官のスティリコにこの二人の兄弟を託した。18歳のアルカディウスはローマ帝国の東側を、10歳のホノリウスはローマ帝国の西側を治めることになった。

 しかし、23歳になったホノリウスは嫌気が差して軍総司令官のスティリコを処刑してしまう。無防備となった西ローマ帝国を西ゴート族のアラリックが攻める。そして、ローマ劫掠が行われた。そのときに、ガッラ・プラチディアは捕囚されたのである。

 そして、アラリックの後継であるアタウルフと結婚することになった。得意満面であったアタウルフだが、イベリア半島に移ってから他の諸部族と対立し窮してしまった。これを打開しようと次の族長となるヴァリアはローマと関係改善を謀った。その条件とはアタウルフの殺害、ガッラ・プラチディアの返還、そして、食糧援助である。こうやって、北アフリカから送られた大量の小麦と引き換えに、ガッラ・プラチディアは5年ぶりにイタリアへ戻って来たのだった。

 間も無く、ガッラ・プラチディアはホノリウス帝の承認の下に、貧農の生まれの将軍コンスタンティウスと結婚させられた。この二人の間にヴァレンティニアヌスという男子が生まれる。

 2年後、子のいないホノリウス帝が亡くなると、ヴァレンティニアヌスが後継となった。まだ6歳のヴァレンティニアヌス帝は母であるガッラ・プラチディアの後見を必要とした。ここに来て、ガッラ・プラチディアは西ローマ帝国を統治することになったのだ。このとき彼女は30歳代の半ばであったという。

 何という波乱の人生!!

 現在、ガッラ・プラチディアの廟に彼女の亡骸はなく、他に埋葬されていると聞いた。コンスタンティウスと一緒に埋葬されることは、彼女の中にあるテオドシウス帝の娘としてのプライドが許さなかったのだろう。

ガッラ・プラチディアの廟サンタポッリナーレ・
ヌオーヴォ聖堂
ネオニアーニ洗礼堂
キリストの洗礼と十二使徒


10月18日 ローマ

 朝、Modenaを経ち、Bologna Centrareで、ユーロスターに乗り換えてRomaへ。ローマは暖かい。羽毛服は必要ないようだ。いよいよ残すところ、後2日。

 ローマ・テルミニ駅近くに安くて美味しいレストランテがあった、というので、駅近くの路地を隈無く歩いてみると、漸く目的のレストランテを見つけ出した。地元のおじさん達がワインを飲みながら食事をしている。小綺麗とは言えないけれど、安くて旨い。これで十分だ。

 その後、ローマの神々がいるカピトリーノの丘に一人で上った。世界最古の美術館であるカピトリーニ美術館に入ると、マルクス・アウレリウス帝が待ち構えていた。
 「ローマ帝国の終焉まで見た今回の旅はいかがかな?」と語りかけて来るようだ。

 私は塩野七生さんが書いた次の文章が一番記憶に残っている。
「ローマは、その後の歴史に現れる他の帝国とは、もう一つのことでも完全に違っていた。他の帝国は支配下の植民地が次々と独立して行ったことで帝国ではなくなったが、ローマだけは、属州が離反したから帝国でなくなったのではない。怒涛の如く襲ってきた北方民族の前に、属州もまた本国と同様に運命をともにしたのである。・・・本国の民も属州民も同じ運命共同体に属すと考えたローマ人の帝国観は、それを<familia>と呼んだ彼らの言葉によく表れている。」

 ギリシャ債務によるEUの問題、日本のTPP参加の問題、いずれも、地球は運命共同体に属すと考えない限り、解決できないだろう。

マルクス・アウレリウス帝の
騎馬像
フォロ・ロマーノカピトリーニ美術館展示品


10月19日 ローマ

 未明に雨が降ったが、陽が昇る頃には雲から晴れ間が見え始めた。長かったこの旅も本日で最後である。

 今日はサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂に行くことにした。コンスタンティヌス帝が建造し寄進したもので、カトリック教会でもっとも重要な教会である。
 「アヴィニョン捕囚」(1309年)までの1千年間ラテラノ教会はローマ法王の座所であり続けた。現在でも法王に選出されて最初に訪れるのはこの教会である。

 荘厳な内部に見入っていると、何やら催しがあるらしい。そのまま並べられた椅子に座っていると、オルガンが鳴り始め、合唱の中で司祭達が厳かに入場してきた。その列の最後に宝石を散りばめた冠をかぶった法王?のご入場である。左右の参列者に十字を切りながらゆっくりと中央の祭壇に進まれた。
 合唱、誓い、説教、アフリカ信者からの踊りを伴った奉納…など、1時間半に及ぶミサが行われた。

 世界で最も重要な教会で、ミサに参加出来たという大変貴重な経験をもったわけだが、この旅を締め括るにふさわしい場所とも思えた。

 さて、これまで王政ローマから帝政ローマまでを見るために、何度となくイタリアを訪れたのだが、そろそろローマ属州の方に移ってもよいように思える。「カエサルがヨーロッパを作った」と言われるが、その前にハンニバルの父のハミルカルによって、カルタゴはイベリア半島に進出した。

 次はスペインかなとも思い、スペイン語の入門書を買ってきてしまった。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。せっかく海外にクライミングに行かれるのならば、その国の歴史や文化を見ることも楽しいことだと思います。この旅行記が幾分なりとも皆様のお役に立てるのならば幸いです。

サン・ジョバンニ・イン・
ラテラノ教会
コンスタンティヌス大帝ペテロとパウロの像

投稿者 sue_originalcv : 2011年11月07日 07:49

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